木曾山林資料館

                   

[この題字は演習林管理棟の入口に掲げてある館銘板の文字から起こしたものである。木曽町開田高原在住の椙本清美氏の揮毫による。]

木曾山林資料館2014.5.24OPEN

TEL.0264-22-2007 

〒397-8567 長野県木曽郡木曽町新開4236 木曽青峰高校新開キャンパス内

資料館のブログ

御嶽海の活躍を願って

 猛暑のピークはどうやら過ぎたようですが、今日も資料館の室内で30度越えです。
まだまだ油断できません。熱中症予防にスタッフには冷たいほうじ茶を強制的に飲んでもらっています。

 さて、10日後の9月13日(日)から、大相撲秋場所(9月場所)がはじまります。観客を2500人に絞っての特別な場所になります。新型コロナウィルスの陽性者が途中で出たりすると大変なことになりますから、何とか千秋楽まで無事過ぎればと願うのみです。

 そこで、当資料館とも縁のある御嶽海の活躍を期待して、第一展示室前の廊下の御嶽海コーナーの充実をしました。
 御嶽海の出身校である木曽青峰高等学校森林環境科の実習室前の廊下に展示してあった御嶽海の初優勝時の号外や新聞記事を張ったパネルが、手狭になって起ききれないということで、こちらに引っ越ししてきました。
 きょうは、それらを壁に吊るして来館者にもあの時の感激を思い出していただき、今場所の活躍を応援したいと考えて、一汗かきました。

 

展示物の紹介(その7)帝室林野局技師による講義

 相変わらず木曽でも猛暑が続いています。平年なら夏の期間に資料館の室内で30度をこえることは滅多にないのですが、今年は毎週の開館日に32度くらいになります。

 暑さに負けず、きょうもブログをお届けします。「帝室林野局技師による林業講義」です。
 帝室林野局というのは、明治22年から昭和23年まで木曽をはじめ北海道など東日本を中心に分布していた御料林(皇室所有の林野)を管理していた役所で、木曽には明治36年に支庁(後に支局)の設置が決まり、木曽山林学校からも成績優秀な学生が毎年のように採用されました。学生にとってはあこがれの職場だったと言えます。

 帝室林野局技師による木曾山林学校での講義が本格化したのは、昭和9年(1931)からで、3年生が卒業する直前の2月に、実際の林業の現場で役立つような実践的な講義が行われ、講義録も印刷され、OBにも配布されました。
 講義の内容を一部紹介しますと、まず岩田利治技師による「森林樹木の識別法」が昭和9年から13年まで毎年続けられ、2月以外の季節にも御料林の森に入って実地に教えていただくこともありました。
 また、渡邉平治技師からは毎年、三角測量を中心にした測量の講義があり、昭和15年には連続5日間にわたって測量実習が行われました。講義をもとに『御料地測量の実際』というテキストが作成された程です。
 講師の方々は多彩で、それぞれの専門についての実践的な講義で、山林学校卒業生で御料林に勤務していた長谷川義雄・樋口徳一・森田孝太郎・遠山重明らのOBも母校の教壇に立ちました。

 これらの様子は、「御料林と木曾山林学校」というタイトルで展示されているほか、講義の要項は書庫で手に取って見られます。

除湿機の除湿機能を自動化しました

 木曽も猛暑が続いています。セミの鳴き声が爽やかというよりは暑さをかきたてるように感じられます。
 きょうのブログは「資料館の日常」というよりは、「異常」への対処の話をしようと思います。

 今年のツユは長引いて7月下旬までよく雨が降りました。資料館としての気がかりな環境要素は「湿気(しっけ)」です。もともとはインテリア科の実習棟ですから、エアコンは入っていません。資料館に切り替えるときに、何とか家庭用除湿機を4台購入したのですが、家庭用ですから18リットル水が貯まると自動的に機械はストップしてしまいます。今年のツユは、朝、貯まっている水を捨てても昼ご飯が終るころにはまた一杯になってしまいました。それでも職員が出勤しているときは1日2~3回捨てれば済みますが、週1日の開館ですから残りの6日間は一度一杯になって機械がストップしてしまえば、あとは全く除湿機能は働かないのです。

 これには困りました。そこで使用説明書をよくよく見たら、ホースで水を外に出せば連続使用が可能なことがわかりました。
 流しのある部屋は、流しのそばに除湿機を置いてホースをつければ解決ですが、第一展示室は大きな多目的教室ですから流しはありません。そこで、写真のように除湿機をワゴンの上に載せ、窓からホースを使って水を外に出せるように工夫しました。普段、人がいないときにも引き戸のスキ間からホースを出せるように、ホースの着脱器具(園芸用)をかませて、簡単にセットできるようにしました。

 これで一件落着です。来年のツユも安心ですし、冬季休館中もしっかり湿度コントロールできると思います。今年の異常なツユが快適な日常を生むキッカケになりました。
(除湿機のスイッチは、展示室は60パーセント、収蔵庫だけは55パーセントにセットしてあります。)

 

展示物の紹介(その6) 写真集『山の歳月』

  いよいよ真夏の陽射しが容赦なく降りそそいでいます。
 きょうは、当館の周囲で森林環境科の生徒がフォークリフトの運転資格を取得するための特訓をしています。その機械音に負けじとミンミンゼミも切れ目なく泣き続けています。

 さて、きょうのブログは木曽山林学校OB生の著作物を紹介しようと思います。
 第二展示室にOBの著作物コーナーがあって、そこに4・50冊くらいの本が展示されています。歌集や自分史・闘病記・研究論文・海外での活躍を報告するもの等々、内容は実に多彩ですが、その中から著者から直接寄贈を受けた1冊の写真集『山の歳月』を紹介します。

 著者は岡村誼(よしみ)さん。岐阜県古川町(現・飛騨市)の出身で山林学校を昭和17年(1942)12月に繰り上げ卒業して地元の古川営林署に就職。20年3月に召集されて渡満したが終戦で捕虜となりシベリアに抑留されましたが、24年にようやく帰国し、名古屋営林局に復帰しました。林野の役人としては珍しく26年の長きにわたって広報部に配属となり、名古屋営林局報『みやま』の記者並びに編集者として職を全うしました。

 この写真集は名古屋局の管内を足しげく取材したときの写真を、退職後に一冊の本としてまとめたもので、戦後の国有林の変貌する姿を見事にとらえています。とりわけ現場で働いている人たちの豊かな表情をとらえているのが素晴らしいのです。
 是非、ご来館いただいてじっくりと写真集を味わっていただければと思います。

猛暑の中、3人の来館者がありました

 このブログの今年のタイトルは「資料館の日常」です。
 毎週、木曜日に数人のスタッフで清掃や、所蔵資料の整理・研究等を行っていますが、きょうも、その日常の業務として、コロナ関連で開館と同時に、消毒剤をしませた布で階段の手すりやドアノブ等の消毒をしているときに、地元の3人連れの家族の方が来館されました。コロナの問題が出てからは学校関係者の来館はありますが、一般の方はほとんどお見えにならなかったので、当館としては嬉しく、ご案内をしました。

 来館された動機は、8月1日に発行された『市民タイムス』(松本の市民タイムス社発行)で「旧木曽山林校舎解体へ」という記事を読まれて、解体される前に一度見ておきたいということでした。
 木曾山林資料館はたしかに木曽山林高校に由来する、林業に関する資料が展示されていますが、解体されるのは耐震性がないと判定された昭和38年に建てられた古い本館と管理棟が中心で、それ以外の木曽青峰高校が現在も使用している実習棟や、信州木曽高等看護学校は大丈夫です。

 木曽山林のOBの皆さんも、ぜひ、懐かしい母校へ一度お出かけください。うっそうとした樹木に囲まれた黒川の、清流の音に耳を傾ける、そんな非日常を久しぶりに味わってみませんか。

展示物の紹介(その5)はじめての林業教科書

 きょうは、シリーズになってしまった「展示物の紹介」の5回目になりました。
 明治34年(1901)開校の木曾山林学校で、初めて使われた林業の教科書について紹介したいと思います。
 今なら教科書がないという学校生活は考えられませんが、あの当時、全国ではじめて設置された「林業科」の実業学校では、国語や数学の教科書はあっても、専門の林業関係の教科書は何もなかったのです。先生方は自分の大学生の時のノートやドイツ林学の原書を教室に持ち込んで教えていたのです。
 最初の林業の教科書は、木曾山林学校が始まってから6年経った明治40年3月に発行された『林學通論』でした。この教科書を編纂したのは東京帝国大学農科大学教授の本多静六博士ですが、本多博士の話はまた何れ機会があれば取り上げたいと思いますが、きょうの主役は、その教科書を最初に使った生徒の話です。

 明治40年4月に木曾山林学校に入学した甲田林君は、我が国で最初に生まれたその林業教科書を手にすることが出来たのです。そしていま、筆者の手許にある教科書はその甲田さんが戦後になって母校に寄贈してくれたものです。写真でご覧の通り細かい書き込みがびっしりとあります。赤ペンで記入されたものと、鉛筆書きのものと2種類あります。(当館においでいただける機会がありましたら、手にとってご覧になってください。) 甲田さんは山林学校卒業後に北海道の国有林(内務省所管)に就職し、道内各地で林業技術者としての生涯を送りました。退職後には請われて北海道森林管理局所管の「洞爺湖森林博物館」の館長を務められました。その仕事も一段落したとき、これで自分の林業一筋の生活が終わったことに安堵し、生涯にわたって手許に置いて参考にしてきた教科書をすべて母校に送ってくれたということです。

<付記>当資料館のホームページのトップページから、右側の目次(バナー)の「歴史の中のエピソード」というコーナーに[◇本多静六と山林学校のかかわり]という記事がありますので、そこにアクセスして目を通していただければ有難いです。

展示物の紹介(その4)・木刀

 新型コロナウィルスの第2次感染爆発が危惧される4連休の初日、木曽は朝から弱い雨が降り続いています。
 今日のブログは「展示物の紹介(その4)」ということで、収蔵庫に眠っている75年前の木刀をご覧に入れましょう。

 昭和20年(1945)秋、敗戦国日本に進駐軍が来て母校にも査察にくるという話が伝わってきて、武器庫にあった三八式歩兵銃をはじめとする兵器類や武道関係の道具を焼却処分することになった。剣道部員であった今井弘幸君(第43回・昭21卒)は、何とも惜しいと思い、誰にも内緒でそっと隠して家に持ち帰り、五十有余年、大事にしまっておいた。
 鍔がついている木刀は珍しく、形もよく、柄のところは山林健児の汗と脂がしみ込んで艶が良い。

 母校の創立百周年を記念し、歴史の貴重な語り部として大切に保存していただきたいと、母校に返却されたものである。
(今井氏は百周年の記念事業に際して、記念誌の編集に尽力され、この資料館の設立にもご助力をいただいたが、数年前に鬼籍に入られた。)

  今井氏の揮毫された資料館の銘板

展示物の紹介(その3)

当館所蔵の膨大な標本の中から、選りすぐった逸品を紹介するシリーズの第3回です。

きょうは、明治43年3月に『岐蘇校友 11号』に「校友諸君に望む」と題して、江畑第2代校長が「林業・林学の教授用資料を収集して母校に送ってほしい」と檄を飛ばしたことに応えて送られてきた朝鮮・鴨緑江産の「材鑑」を紹介しましょう。

送り主は、明治38年・第4回卒業生の大島角蔵氏です。彼は卒業と同時に朝鮮総督府に就職、鴨緑江に近い咸茂山営林廠(署)で働いていました。『岐蘇校友』はそこにも送られて行きました。
そして仕事の合間に周辺の森林の樹木の中から16種を選んで、端材から40×22×120ミリメートルの標本を切り出し、それを納める箱も作って母校に寄贈したのです。江畑校長の要請からわずか4ヶ月後の明治43年7月のことでした。

こうして、大勢の卒業生から植物標本や木材標本、さらに森林や伐木運材作業等の写真まで、さまざまなものが学校に送られてきました。最終的には、大正元年に移転新築された校舎の「林業標本室」に展示され、100年以上にわたって在校生の授業に使われてきました。
現在の「木曾山林資料館」は、その標本室を核にしてつくられたのです。
是非、来館してじっくりと見ていただきたいと思っています。

展示物の紹介(その2)

 
 今日の木曽はツユの中休みで、爽やかな青空が見られます。昨日(7月1日)は、御嶽山の開山式が雨の中で、コロナ対策もあって関係者のみで行われました。

 きょうのブログは先週に引き続いて「展示物の紹介(その2)」ということで、御嶽山の高山植物の標本(押し葉)をご紹介します。製作者は安藤時雄第三代木曾山林学校校長です。安藤先生は若干29歳で校長として赴任されました。植物に詳しく生徒に直接指導されることが多かったという話が残っています。
 この標本は、大正2年(1913)8月3日に御嶽山の登山をし、64種の高山植物を採集し標本を作製しました。現在では採集は禁じられていますから貴重な標本ということになります。写真でお見せしたのは、「オンタデ」というタデ科の植物で、高山帯のがけ地や砂礫地に多く見られます。和名は御嶽山に多いことから名づけられたものです。

 この標本は年代的にみても貴重ですから、通常は展示していないで収蔵庫で保管しています。もし、高山植物とりわけ御嶽山の植物に興味のある方が、大正時代の初めの頃の植物を知りたいというようなご希望があれば、ご連絡をいただければ閲覧をすることは可能です。それも資料館のひとつの役割かなと思っています。

 

展示物の紹介(その1)

新型コロナウィルスの騒ぎは一段落ということで、当館の日常も普段どおりに淡々と過ぎています。

きょうは、ホームページでご紹介していない展示物の中からピックアップしてご紹介したいと思います。ネタは無尽蔵とはいいませんが、いくらでもありますので、珍しいものを探して紹介していきます。収蔵物の紹介は我々スタッフの重要な仕事でもあります。
今回はその第1回目ということです。

 

測量器具の中から古いものを選んでみました。明治時代の「コンパス」と「測鎖」です。

コンパスは2点間を結ぶ測線の方位角(北から右回りに何度あるかという数値)を測定する器械です。何が古いかといいますと、写真ではよくわからないかと思いますが、目盛盤に360度の目盛りとともに、「子・丑・寅・・・」と十二支が30度きざみで刻まれていることです。伊能忠敬の記念館にあるコンパスと同じようなモノです。伊能忠敬はこれを杖の頭に取り付けて、器械を水平に保った状態で、相手地点を視準し、瞬時に目盛りを読み取ったのです。

もうひとつは、2点間の距離を測るための道具です。一般的には巻尺が使われますが、この写真のものは「測鎖」と呼ばれています。名前の通り鎖です。鉄でできています。1鎖の長さは6寸で、全長は5間です。1間ごとに爪がついていて、爪の突起の数で何間かがわかります。また、1間の中間(3尺)には小さい丸い輪がついています。
鉄製ですから重いのですが、水には強いので、この測鎖を谷沿いに流れの中を引っ張っていっても大丈夫です。

是非、来館の折には、手に取ってじっくり見ていただければと思います。

(きょうのブログは6月25日に発信したものですが、記述に間違いがありましたので、28日に修正しました)