木曾山林資料館

                   

[この題字は演習林管理棟の入口に掲げてある館銘板の文字から起こしたものである。木曽町開田高原在住の椙本清美氏の揮毫による。]

木曾山林資料館2014.5.24OPEN

TEL.0264-22-2007 

〒397-8567 長野県木曽郡木曽町新開4236 木曽青峰高校新開キャンパス内

歴史の中のエピソード

 このコーナーは、木曾山林資料館にパネル展示している木曾山林学校/木曽山林高等学校の歴史について、より深く具体的に理解していただくために、当館のスタッフが調査・研究している事柄を《歴史の中のエピソード》ということで、単発的にこのコーナーに掲載したいと思っています。なお、木曾山林学校/木曽山林高等学校の歴史について、一番基本になっている資料は、同校の100周年記念誌『山霊生英傑』(2001/10.6)です。

◇本多静六と山林学校のかかわり

 本多静六(1866-1952)は、明治~大正~昭和戦前期に我が国の林学界・造園学界に大きな足跡を残した巨星です。その彼が山林学校の創設や教育内容に多大な影響を与えたことはあまり知られていません。このことを少し長くなりますが、当資料館に残されている資料等から紹介しましょう。

 本多静六の功績は、第一に木曾山林学校が設立される過程で一つの大きな影響を与え、第二に本多の農科大学時代の教え子である木曾山林学校の初代校長・松田力熊を通じて、本多の林業に対する姿勢や林業教育の手法を木曾山林学校に根づかせたとみられる点、そして第三に山林学校の生徒に直接、指導・講話という形でインパクトを与えたこと、最後に教科書執筆を通じた貢献にまとめられると思います。
 以下でそれらを具体的な史実をもとに整理してみます。
 まず、木曽山林学校ですが、学校の設立の経過は、明治33年2月の郡会で実業学校の設立が決議され、たまたまその年の7月に静岡で大日本山林会の講演会があり、講師は農科大学の本多静六先生であるという情報がもたらされ、郡の若手幹部11名がそれを聞きに行くのです。
 本多静六のその講演会の演題は「木材利用法の進歩」で、講演の最後の方で「木材の利用は広がっているが、これに伴う植林はすべからく林業従事者の責任である。長期的に山林を経営していかねばならない。それには林業教育が大事である。」という趣旨のことを熱烈に説いたわけです。大日本山林会会報には「この演説に聴衆もおおいに感動し、恰も酔えるが如くなり」と記録されています。
 この講演を木曽から聞きに行った若者たちはおおいに感激をし、帰ってきて報告して、「林業教育が必要だ!山林学校を作ろう!」ということになって、明治33年10月の郡会で満場一致で可決、直ちに文部省に設置認可の申請を出すのです。これが、本多静六が木曽山林学校に与えた影響の第一番目です。
 この本多静六の演説を、1年後に木曽山林学校の初代校長となる松田力熊が島根県からはるばる会場に来ていて聴いております。
 松田力熊は明治23年に東京農林学校に入学。予科3年・本科3年の計6年をかけて農科大学林学科を卒業しますが、後半の4年間、ドイツ留学から帰って来て助教授に就任した本多の教えを受けることになります。
 この4年間、どんな教えを受けたのかはつまびらかではありませんが、一つだけエピソードが残っています。本多の提案で明治27年秋に、千葉県の清澄山に日本で最初の演習林が開設されますが、翌28年4月、ここで造林実習が行われます。農科大学林学科2年生(本科・乙科)二十数名が実働6日間にわたるハードな実習をしますが、そこに松田も参加しています。
 この実習の様子を学生の一人が大日本山林会報に寄稿した一文が残されています。

 実習の2日目は午後6時におよび疲労困憊の状態で宿に帰ります。手にはマメをつくり、箸を握るのもおぼつかない状況です。そこで夕食後に学生らが先生に、時間の短縮・人夫の増加を頼むのですが、本多は頑として動かない。本多は学生達を説得します。

……農林学校以来、未だかつて行われざりしこの造林学実習を新たにここに企てしは容易ならざるは素より予期する処、この困難を忍ぶ能わざるものは我友にあらず。林学を修るに適せざるものなり。

……感奮禁する能わず、再び勇を鼓して其業に励ましめんとするに至れり……

 【服部正一:農科大学造林演習記事(『大日本山林會報 第百四十九号』;明治28)より】

 この説得で学生らは勇気をふるって、このあと更に3日間実習を続けて、最終日、片付けをして海岸へ下り磯遊びをしたあと、本多も含めて師弟和気藹々の宴会を催して終わります。

 松田が校長として赴任して直ぐに演習林の設置に動きだし、郡の幹部に働きかけて1年たらずの内に演習林開設を実現したモチベーションは、この造林実習にあったのではないかと推測しています。
 演習林の設置以外にも松田が実行した大きなことに修学旅行があります。着任早々の6月に自ら引率して郡下の森林視察を実施したのをはじめとして、3年間かけて第一回生をあちこち連れて歩き、彼らが卒業した時点で修学旅行の実施を学則のなかに明記します。

……但シ旅行ノ日数ハ第二学年ハ約二週間第三学年ハ約三週間トス

 また、……生徒各自ノ都合ニヨリ之を免ルルコトヲ得ス

【長野縣立甲種木曾山林學校學則(明治37年改訂)より】

 このように、松田力熊が構想した山林学校の教育方針は「林学は観察の学問である」という言葉に集約され、そこに本多静六の影響を見ることができます。
 第三の功績として本多が木曽山林学校の生徒に直接指導をした点です。山林学校の校友会という生徒・教職員・卒業生の三者でつくっていた研修と親睦をかねた団体で発行した『校友會報』に、詳細な記録が残っています。
 
明治36年6月1日/浅間山麓のアカマツ林にて(中央やや右の立派な髭の人物が本多静六博士)

  明治36年6月1日、2年生の修学旅行の長野県の浅間山麓の山林局のカラマツ林です。ここで、本多博士の一行と落ち合います。松田校長が本多と連絡を取り合ってのことです。

 この日一日、本多は修学旅行の山林生を案内し、各所で本多をはじめ同行の研究者・技術者が入れ替わり講義をするのです。この日の動きは校友会報の修学旅行記に細かく書かれています。
 この1日の中で、本多静六は4回、野外ではありますがある程度のまとまったテーマのもとに生徒に講話を行っています。帝国大学の教授が、実業学校の生徒のために無報酬で朝7時から夕方6時まで13時間つきあっています。しかも、自身の同僚や教え子の学者・技術者を巻き込んでのことです。

 最後に本多が実業学校で使用した林業関係の教科書を執筆したことも大きな功績であると思います。本多静六が最初に書いた実業学校向けの教科書は明治40年3月発行の『林学通論』で、明治の終わりまでに6冊出されています。本多静六編著の『森林家必携』も林業教育の中では忘れられないものです。大正以降、実業学校の林業関係の教科書は教え子の教授・助教授が部門ごとに書いて、本多静六が監修するというスタイルが確立します。

 以上、木曾山林学校の草創期に本多静六と松田力熊初代校長とのコンビが、林業教育の定着・発展に果たした功績を歴史上の一つのエピソードとして紹介いたしました。
(この項目は、平成26年3月に行われた第125回日本森林学会大会で、本資料館のスタッフの一員である山口登が発表した原稿をもとにまとめたものです)

◇木曾山林学校草創期における校友会の活躍

まえがき

 平成28年(2016)3月、インターネットを利用した「信州地域史料アーカイブ」(NPO長野県図書館等協働機構)上にて、木曾山林資料館所蔵の『木曾山林学校要覧』(明治45年版)、『木曾山林学校々友会報』第1号、『岐蘇林友』第19号、同第144号の4点の資料が一般に公開されました。本稿はこれらの資料が刊行された背景、すなわち学校草創期における校友会を中心とした教育実践の流れを追ったものです。これによりアーカイブに公開されている4点の各資料についてご理解を深めていただくと共に、木曾山林学校の歴史とそれが持つ意義について、さらなる関心をお寄せいただければ誠に幸いです。

1、地元の郡立学校として開校

 幕末期の木曽谷は、江戸時代にこの地を支配した尾張藩の厳しい森林保護政策によって世界に類を見ないヒノキを中心とした美林が広がっていた。明治維新後は、これら藩の支配した森林は官林(国有林)となり、さらに明治22年(1889)には皇室財産としての御料林(ごりょうりん)に編入された。この御料林は木曽谷における全森林面積の約89パーセント(注1)に及ぶもので、従来明山(あけやま)と称され、木曽五木などの指定木以外の利用を許可されていた林野まで編入され、立ち入り禁止となってしまった。その面積は御料林全体の約78パーセント(注2)を占めた。このため人々は薪炭材までもが入手困難になり、郡内の全町村長を先頭に激しい民有下げ戻し請願運動が展開された。しかし同32年ついに認められることはなかった。
 このように多くの人々が山から締め出されて困窮する中とはいえ、同年実業学校令が施行されると、翌33年には西筑摩郡(現在の木曽郡の他に松本市旧奈川村・塩尻市旧楢川村・岐阜県中津川市に属する旧神坂村・旧山口村を含む)でも、郡立の実業学校設立の機運が高まった。時の郡林業巡回教師の手塚長十(後同校教諭)などの提言を受け、10月には乙種程度の山林学校設立を郡会で決定し、早速その認可を得た。その設立主意は次のとおりである。
①木曽は農業に適した土地が少なく、御料林を含めほとんどが林野であること。
②維新以来、荒廃しきっている民有林の再生と御料林愛護の精神を培うこと。
③木曽は伝統的な伐木運材の方法にすぐれ、それらを学ぶに好適の地であること。 
 以上3点をあげ、郡内の各町村は苦しい財政の中から浄財を出し合い、校舎は高等小学校の廃校舎を使って、わずか半年後の明治34年(1901)4月、西筑摩郡立乙種山林学校を開校させた。我が国で最初の林業を専門とする実業学校は、こうして設立されたのである。

2、生徒集めに苦労した山林学校

 開校当初、関係者には大きな不安があった。それは果たして高い授業料まで払って生徒たちが集まるかどうかであった。さらに当時農学校が長野県内でも各地にできたが、これらには近在にある農家の後継者が集まっていた。しかし大部分が御料林で占められた木曽においては、林業家の後継者は皆無に近かった。そこで関係者は学校の程度を入りやすい乙種とし、さらに予科(1年制)もおいて、郡内・県内はもとより広く県外まで生徒の募集範囲を広げた。その結果遠く島根や石川などの県外生を含め67名の入学生があった。関係者はほっとするまもなく、開校式5月15日の翌日には甲種への申請を行い、同年7月には認可された。さらに5年後の明治39年には県立に移管された。
 この生徒集めの苦労が、以後同校に全国から生徒が集まる第1歩となった。

3、学校づくりに励んだ青年教師たち

 初代校長として赴任した松田力熊は、島根県出身。明治4年(1871)生まれ、このとき30歳。帝国大学農科大学(現、東京大学農学部)卒業、島根県技師兼同県林業巡回教師を経て校長として赴任。また設立準備に当たり、開校後は同校教諭となった前述の手塚長十は安曇野市豊科出身、同じく明治4年生れの30歳。これら若き教師たちが中心となり木曾山林学校の礎を築いた。後述する第5代校長岡部喜平(同大卒業で松田の2年後輩)は、そのころのことを「長野県の木曾に郡立の山林学校が出来て松田林学士が校長になられたと聞いたときに、我々仲間は其(そ)れが永続するであろうかと危ぶむ(ん)だ」と述懐する(アーカイブ掲載『岐蘇林友』第144号参照、以下『林友』と略称)。松田も手塚もいわゆる学校での教員経験はない。
 しかし松田校長は学理と実習の両立を説き、かつ「林学は観察の学問である」として、実習や修学旅行を重視し実践していくなど、同校の礎を築くために若い教師たちの先頭に立ち意欲的に教育活動に取り組んだ。しかしそれは教材・教具はもちろん教科書さえ揃わない中での試行錯誤でもあった。
 その具体的内容はアーカイブ掲載『木曾山林学校々友会報』第1号(以下『会報』と略称)に紹介されている。

4、校友会の創設、教師と生徒が力を合わせて

 こうした中で生徒たちも積極的に新たなことに取り組んだ。それが校友会の結成である。その中心にいたのは鳥取県出身の坪倉藤三郎である。彼は明治3年生まれで校長らよりも年上であったので「坪倉オールド」の愛称で親しまれ、教師や級友から一目置かれていた。その彼が校友会の創設について次のように述べる。開校後まもない7月に校友会が「在学生諸君と共に尽力して創(はじ)めて設けられ」(『会報』1号)た。しかし3、4回会合を開いただけで、活動が頓挫してしまった。翌年4月、彼は先生方から時々校友会はどうなっていると問われても、答えられずに困りはててしまった。そこで翌5月「吾々協議の上、本校校長を会長に推戴し」(同)て校友会を再興し、組織を改正して新たな校友会を発足させたという。
 すなわち生徒と教師が力を合わせて校友会が再スタートしたのである。そしてこの校友会が同校教育推進の大きな原動力の一つになっていった。

5、全卒業生や地域の人々まで組織した校友会

 この校友会では、その目的を「会員相互の知識を交換し親密を図り以(もっ)て一致団結の精神を鞏固(きょうこ:強固)にする」(『会報』第1号)ことを目的とした。そのために機関雑誌として校友会報の年2回発行、学理経験者を招き演説・講話の実施、会員相互の意見を述べ合う集会の開催、運動会などの企画運営、有益な書籍・新聞の購入などを決めた。
また会員として、在校生全員を通常会員としたのをはじめ、林業に関して名望学識ある人を推挙して名誉会員とし、さらに学校に関係する人々及び本会の趣旨に賛同する諸士を特別会員とした。このため特別会員には学校の教職員だけでなく地域の人々の参加を得ることができた。たとえば初年度の名簿には24名の地元町村関係者の名前が挙がっている。
 ところが、明治37年(1904)3月初めて28名の卒業生が出ると、卒業生もまた特別会員としてこの校友会に組織された。すなわち学校を中心に教師・生徒・地域の人々・卒業生がその会員となった。いわば小さな学校に大きな組織ができあがったのである。この組織は昭和初年ころ、卒業生を組織した蘇門会(そもんかい)ができあがるまで続いた。

6、生徒は全国から、卒業生は全国へ

 前述したように生徒を集めるため、教師や関係者は、郡内・県内はもとより他府県まで生徒集めを行った。そのための寄宿舎も用意され、生徒たちは隣接する岐阜・愛知・山梨のみならず、石川・和歌山、遠く北は山形、南は島根・鳥取・熊本・鹿児島などからも集まった(明治40年「在席生徒並卒業生本籍調表」〈『長野県立甲種木曾山林学校一覧』〉)。
 また卒業生は、当時整備されつつあった官林(国有林)・御料林・鉱山などに林業技手、すなわち現場の中堅技術者として赴任する者が多かった。その結果卒業生の多くが、国内はもとより、南は台湾、西は朝鮮、北は樺太などにまで赴任していた。同時に『校友会報』もまた、これら会員である卒業生の手元に届けられていったのである。

7、定期刊行にならない機関誌『校友会報』

 全会員に配られる機関誌『木曾山林学校々友会報』第1号が、校友会結成の5か月後の明治35年(1902)10月に刊行された。しかし年2回と定められた会報の発行は極めて困難なものであった。経費の問題はもちろんのこと、肝心の印刷所が郡内にはなく、遠く岩村田町(現、佐久市岩村田)まで行かねばならなかった。しかも当時は中央西線(注3)がまだ開通しておらず、歩いて鳥居峠(標高1197m)を越えたのである。また開校当初でも毎年30名前後の卒業生が出るわけであるから、彼らへの送付も後には次第に負担となっていった。その結果、明治42年度までの9年間に、『会報』は11号まで刊行されたに過ぎない。

8、校友会の大改革、小さな学校の大きな夢

 初代松田校長は6年3カ月在任の後、明治40年(1907)7月御料局技師に転任し、同年9月第2代校長として江畑猷之允(ゆうのじょう)が赴任した。彼は同11年(1878)奈良県生れ、帝国大学農科大学を卒業後、宮城大林区署技師から同校々長として着任した。彼も学校における教師経験はないが、やはりこの時数え年30歳の青年教師であった。
 彼は赴任1年半後の同43年3月、翌年度学校創立10周年を迎えるに当たり『岐蘇校友』第11号(これは『会報』の名称を改めたもので、号数は継承した。以下『校友』と略称)誌上において「校友諸君に望む」を発表した。その中で特に次の2点について協力を呼びかけた。
② 目下学校で計画中の教授資料の収集
②校友会の革新更張(かくちょう:今までのことを改め、さかんにする)
これらはもちろん卒業生を含む全会員に向けて発信された。

(1)林業界の改善進歩を促がす唯一の機関に
①の「目下学校で計画中の教授用資料の収集」は、文字通り学校で不足している教授用資料の完備を目指すものであり、これは全国に赴任していった卒業生会員に向けたものであった。すなわち各自の赴任地から森林植物の腊葉(さくよう:押し葉)・樹実・材鑑(ざいかん:各種樹木の標本)・害益虫や鳥獣などの標本・森林工芸・林産製造品などを送って欲しいというものであった。さらに森林・林業情報、例えばそれらに関する写真・図画・事業経営書類・印刷物・書籍・各自の研究物、任地の農林事情や農林功労者、民情までも報告するよう求めたのである。江畑はこれらの目的を単に教材というだけでなく、研究にも活用し「これらの優劣良否を研究し(中略)当校をして従来よりも層一層林業界の改善進歩を促さしむる唯一の機関にしたい」と将来的な計画を含めて訴えた。
これには多くの卒業生や地域の人々、加えて全国の農学校・農林学校などまでもが応じた。この結果大正2年(1913)10月、移転新築した校舎の落成式が行われた際には、林業第一・第二標本室だけでなく博物標本室まで使って盛大な林業教育品展覧会を開催することができたのである。当日は近郷近在から見物に来た人々で展示室は大入りを極めたと(『林友』第49号)という。
 この時だけでなく、しばしば卒業生による寄贈があり、それらの物品の一部は現在も木曾山林資料館に保存されている。またこうして集められた情報は、後述する『岐蘇林友』誌に掲載されていった。
(2)札幌農学校が最高学府に昇格したように
②の「校友会の革新更張」は校友会活動の更なる活性化を訴えたものであり、主に在学生に向けられたものであった。その活動範囲を校内のみならず対外的な方向を提言し、例えば林業講演会の開催、有用樹種・見本樹苗の配布、製炭・椎茸栽培法やその利用法・造林施業按編成に関する印刷物の配布などをあげた。こうした近代林業に関する知識の啓蒙活動は次に述べる月刊『岐蘇林友』誌で実現することになるが、江畑はそうすることによって校友会活動の充実をはかり、その実績を残したい旨を訴えた。
そして最後に「要するに旧時の札幌農学校が北海道開拓と共に起り、拮据(きっきょ:骨を折って働くこと)経営30年間に多様の方面に実績を発揚し、その結果先年組織を最高学府(東北帝国大学農科大学)に変更したるがごとく、本学も内容の充実と実質の完美に念々不断の精進を以て、得意高調の秋(とき:大切な時機)に遭遇せんことを期するあるのみ」と結んだ。実業学校である同校を札幌農学校のように最高学府に昇格させる夢を語ったのである。そのために校内、特に校友会活動の充実と実績を求めたものであった。

9、大きな夢に向かって、月刊『岐蘇林友』誌の発行

江畑校長は大きな夢に向かって校友会の会則を変更した。まずその目的を「会員相互の知徳を練磨し、体力を充実し、娯楽を高尚にし、親密を図り以て一致協同の精神を鞏固にし、兼て地方農村に向て林業の知識と趣味とを鼓吹(こすい)して之(これ)を誘掖(ゆうえき:導き助ける)せんとするにあり」(アーカイブ掲載『木曾山林学校要覧』明治45年版参照、以下『要覧』と略称。下線は筆者)とした。つまり従来のものに「兼て」以下を付け加えて、校友会の目的は仲間内だけにとどまらず、外に向かって積極的な活動、すなわち地方農村における近代林業の啓蒙活動をも含むとしたのである。ここでいう「趣味」は単なるおもしろみではなく、林業の根本的な考え方もっと言えば思想的な方面をも含むおもしろみや関心を言うのであろう。
 この目的を実現するために、機関誌発行を年2回から、新聞形式にして毎月1回発行に変更した。従来年2回すらうまくゆかなかった発行を、江畑は開校10年目の明治43年(1910)10月を期し、『岐蘇校友』第12号から月刊化を断行したのである。

10、近代林業を広め、それを志す者の道案内をする

 月刊誌となった『岐蘇校友』第12号は、冒頭「改刊の辞」で、その理由を『会報』が年1~2回の発行では学術研究及び校友相互の親睦においても量的に不十分で、かつリアルタイムの記事がなく新鮮味を欠くことであるとした。そして次のように宣言し、「此(この)雑誌を県下の郡衙(ぐんが:郡役所)・町村・小学校などに配布し、一は以(もっ)て林業を江湖(こうこ:世の中)に鼓吹し、一は以て斯学(しがく:この学問の意、ここでは林学・林業のこと)に志あるものの筌蹄(せんてい:案内)となす」とした。
 校友会の雑誌であるから、当然全卒業生を含む会員はもちろん、さらには県内各地にも配布するというものである。それにより近代林業を広め発展させ、またその林業・林学に志す人々の道案内をこの雑誌がやろうという、いわゆる学校の枠を超えた壮大な取り組みを宣言したのである。
 この月刊化された『岐蘇校友』は翌年5月には、その名称「友」を「友」に変えて『岐蘇林友』と改称した。これは第三種郵便の取扱いを受けるためでもあったが、こうして『岐蘇林友』は一学校の校内親睦雑誌から地域をも含む近代林業の研究・啓蒙誌へと変化を遂げた。
 これは第二代校長として赴任した江畑猷之允の壮大な計画、すなわち実業教育としては我が国初の山林学校である本校を、林学・林業における教育・研究のための最高機関にすることを目標に見据えた実践であった。
 こうして月刊『岐蘇林友』は大正12年(1923)4月の162号まで、12年7カ月にわたり毎月確実に続けられ、さらに大正末年ころまでには168号に達した。

11、学業は高専以上、教師も生徒も異常の努力を惜しまず

 江畑は学校の根本たる学業にも改革を加えた。即ち通常授業の他に課外授業を課し、かつ「学業の程度も高等専門学校以上を以て基準とした」(「二十五年前の追懐」〈『蘇門会報』第7号〈通巻第175号〉)のである。それに対して校内では「教師も生徒も心を注ぎ、神を凝し(:精神を集中する)、習を積み、精(せい:中心となる一番重要なもの)を究め、異常の努力を惜しまず」(同)と述懐する。こうなると卒業生の就職はますます有利になり、そして学校の名声は高まって全国からさらに生徒が集まることになった。
 こうして江畑の校友会改革は学校改革となり、その校内の充実、校外にあってはそれに応える卒業生たちの活躍、さらには地域への啓蒙活動などの成果につながっていった。
 しかしこうした江畑校長のやり方、特に学業の程度を高専以上としたために、県当局から実業学校の範囲を逸脱するとの注意がしばしばあったというが、彼は「断乎として其主義は変へなかった」(同)という。
 そのためであるか否かはわからないが、青年校長江畑は明治45年(1912)5月、岐阜県技師に転任となった。彼は4年9ヶ月の短い在任で自ら計画したことが十分には実行できなかったであろうが、それでも彼が築き残したものは大きかった。幸いにこれらは次の第3代校長安藤時雄(2年3カ月在任)、第4代校長七宮純雄(教頭を含め8年在任)に引き継がれていった。また彼は離任の直前2月、自分の思いを託した学校経営の方針をまとめ、『木曾山林学校要覧』(明治45年版)として刊行していた。
 別れに際して、書記の安井正夫は「植え置きし ヒノキ・サワラの 行く末の 栄は君が 賜物にせん」(『林友』第31号)との歌を贈った。もちろん植え置いたのはヒノキやサワラだけではない、江畑は学校の将来あるべき夢を植えたのである。また生徒代表の阪田勘太郎は「校基(:学校の基礎)歳と共に固く、校風益々(ますます)揚がるに至りしは、主として先生教化の賜(たまもの)と謂(い)ふべし」(同号)と、江畑の業績をたたえた。

12、地域の応援、国立化運動が起る

 学校が大きな夢をもって校内の充実をはかり、校外に向けて活発な活動をする中、当然地域の人々もこれに応えた。それがいわゆる「山林国立化運動」であり、これは江畑が夢見た高等専門学校への昇格運動であった。
江畑らが考えたのは、全国から生徒が集まり、また卒業生が全国へ赴任していく実態を踏まえ、木曾山林学校の授業・学業、学校としての林業研究、地域への貢献など、事実上その内容を高等専門学校と同じものにしようとしたことであった。そうしていつでも同校の生徒・教師、校舎や教材教具などのすべてを、看板さえ替えればそのまま昇格できるものにしようとしたことである。そうすればそれに伴う新たな経費は極めて少なくて済むという利点が生まれるのである。
 しかしこれには大きな壁があった。それは経営主体の違いである。当時、高等農林学校(「専門学校令」による農林業関係の専門学校のこと)は私立を除けばすべて官立(国立)であった。そこでまずは管理主体を県立から国立に移行し、その後に高等山林学校への昇格を期すという二段構えの運動となった。これにはまず国会及び文部大臣の認可が必要である。そこで起こったのが山林国立化運動である。

13、長野県会「山林国立化」を決議

 国立化運動の先頭に立ったのは、地元西筑摩郡選出の松岡治三郎県会議員である。
彼もまた校友会の趣旨に賛同する地域の特別会員でもあった。その彼が中心になって運動、奔走した結果、江畑校長離任1年半後ではあったが、大正2年(1913)11月の長野県会に「木曾山林学校を国立に移すの意見書」が提出された。その中で我が国における林業教育の遅れを訴え、木曾山林学校の国費による充実を訴えた。なぜ同校の拡充なのか、その理由として4点挙げた。第1点目「木曾山林学校ハ全国ニ比類ナキ学校ナル事」(『長野県第36回通常県会議事日誌』同議会図書館蔵)を真っ先に挙げた。これは当時甲種程度の実業学校において単独で林学科を持ち、その卒業生が200名を超えるのは同校だけであること。またこの短い表現の中には、それまでの学校の取り組みを高く評価し、今や地元の誇りとなっていることを含むものであったと思われる。2点目は、木曽の模範的な森林は教育上優れおり、中央西線が開通し交通の便がよいこと。そして3点目は生徒が全国から集まること。4点目は卒業生が全国に赴任していくことを挙げた。即ち、後半の2点では木曾山林学校が一つの県立学校の枠を大きく超え、もはや全国規模の学校であること。前半2点は内容・環境とも国費で拡充するにふさわしい学校であることを強く訴えたのである。
 この意見書は全会一致で決議され、国に意見書が提出されたのである。そして同年度末にいよいよ国会で審議されることになった。しかしその直前、時の第一次山本権兵衛内閣は、シーメンス事件などの混乱の責任をとり総辞職してしまった。このため山林国立化案は廃案になってしまったのである。
 その後も松岡は大正9年(1920)2月病死するまで、毎年県会議員として同意見書を県会に提出。さらに彼の後を引き継いだ手塚光雄議員によっても提出され、計8年間にわたり長野県会は毎年山林国立化案を全会一致で採択し、その度ごとに意見書を国に送ったが、ついに認可されることはなかった。

14、国立化がなぜ実現しなかったか

 こうした長野県全体の総意としての意見書にもかかわらず、なぜ国立化は実現しなかったのか。江畑は学校の「地積狭小という理由で水の泡に帰したのは返す返すも遺憾であった」(『蘇門会報』第7号〈第175号〉)と述懐する。しかし理由は単にそれだけでなく、根本的には国が森林・林業の高等教育は高等農林学校や大学で十分であり、必ずしも単科のそれを必要とは考えていなかったからであろう。事実その後、例えば1920年代には官立(国立)で鳥取・三重・宇都宮・岐阜・宮崎に高等農林学校が創設され、かつ千葉には高等園芸学校までもができたが、高等山林学校は国内のどこにも設立されなかった。
 もし彼の夢が実現していたら、環境破壊・地球温暖化などが人類の深刻な問題となり、森林・林業が世界的に注目される100年後の今日、我が国だけでなく世界の人々に大きな貢献ができる学校が木曽の山中にできていたであろうと思うのである。もちろんこれは仮定の話であるが、ここで注目したいのは、江畑が描いた夢はかくも大きな夢であったことであり、その夢に向かって「教師も生徒も異常の努力を惜しま」なかったこと、卒業生も地域の人々も長年にわたって応援し続けた事実である。 

15、国立化運動の収束と月刊『岐蘇林友』誌の廃刊

 月刊『岐蘇林友』誌は、国立化運動と軌を一にしながら毎月営々と続けられてきたが、毎年増え続ける卒業生に送り続けるという仕事が次第に大きな負担になっていった。その一方で卒業生からの会費・雑誌代は集まらず、財政的にもますます苦境に立たされた。大正9年(1920)3月赴任した第5代校長岡部喜平は「今の時はいたずらに国立騒ぎをなす時ではありません。我々は内にあってひたすら校風の発揚と内容の充実を計らねばなりません」(『林友』第144号)とし、さらなる校内充実の努力を訴えた。そして月刊『岐蘇林友』誌の発行事業を校友会の会計から独立させることを決断した。しかしこのことは校友会の組織変更及び同誌の廃刊へとつながっていった。

 前述したように『岐蘇林友』誌は大正12年(1923)4月まで、12年7カ月の間確実に毎月発行されたが、その後は不定期となり大正末年までに8回(第168号まで)発行された。その後同校では昭和元年ころ蘇門会(卒業生の会)が組織され(注4)、その機関誌として年1回『蘇門会報』が発行されるようになり、その『蘇門会報』が『岐蘇林友』の号数を受け継いでいった。
 現在、『木曾山林学校々友会報』第1号から『岐蘇林友』第164号(但し第48号を除く)までと、昭和に入ってからそれを継続する形で蘇門会が発行した『蘇門会報』(終戦までに第17号<通巻第185号>まで発行)が、木曾山林資料館に保存されている。
(注1)・(注2):町田正三『木曽御料林事件』P.25・26(銀河書房1982)。
(注3):中央西線が開通したのは明治45年(1912)5月である。
(注4):全卒業生を組織しかつ校友会から独立した蘇門会の発足がいつであるかは、不明であるが、『蘇門会報』第1号(通巻第169号)は昭和2年(1927)9月に刊行されている。したがって同年ないしその前年には、蘇門会が発足していたと推定される。

(2016年8月 文責:手塚好幸*)

* 手塚好幸:木曽山林高等学校元教諭(国語担当)。山林高校の100周年記念誌『山霊生英傑』の編集を担当した。