木曾山林資料館

                   

[この題字は演習林管理棟の入口に掲げてある館銘板の文字から起こしたものである。木曽町開田高原在住の椙本清美氏の揮毫による。]

木曾山林資料館2014.5.24OPEN

TEL.0264-22-2007 

〒397-8567 長野県木曽郡木曽町新開4236 木曽青峰高校新開キャンパス内

◇木曽谷模型の里帰り

◇木曽谷模型の里帰り

はじめに
 「木曽谷模型」というのは、現在、木曽町の御料館に展示されている木曽の山谷を形取ったジオラマである。
 このジオラマはまことに数奇な運命に翻弄されて、平成2年(1990)に110年ぶりに木曽へ里帰りを果たした。その後、木曾山林資料館にも一時展示されていた事もある。木曽山林高校の同窓会である「蘇門会」も関わってきたし、当館発行の『研究紀要』第2号に「明治の初めに木曽谷模型は何故作られたのか」というタイトルで報告も掲載されたことから、この模型が木曽へ戻ってきた経緯を[歴史の中のエピソード]として記録・公開することにした次第である。写真は、平成25年(2013)4月に当館の第二展示室に据えつけられたときのものであるが、この時はまだ一般公開していなかったから一部の人しか見ていない。

Ⅰ.前史(*1)
 この模型の足取りを簡単に書くと、明治13年(1880)当時の内務省山林局木曽出張所が、第二回内国勧業博覧会へ出品するために、このジオラマを製作した。山谷の形を彫刻したのは児野嘉左衛門である(*2)。この模型は翌14年に博覧会の会場である東京上野公園に運ばれ、3月1日から6月30日まで展示された。博覧会終了後に模型は組織変更で農商務省に移った山林局の本局に運ばれた。
 継いで明治22年(1889)宮内省御料局が発足し、木曽の官林が御料林に所属することになり、模型は御料局に移転した。明治24年(1891)に“お伊勢さんの博物館”と呼ばれている神宮徴古館農業館が外宮前に建設され、日本の博物館の生みの親と言われる田中芳男(長野県飯田市出身)が農業・林業・水産業の各種資料を展観(*3)した。その中に木曽谷模型も入っていた。徴古館の変遷については詳しく触れないが、昭和20年の空襲で徴古館の建物と収蔵品の大部分を焼失した中で、神宮農業館は無事であったが、平成元年(1988)老朽化により一旦閉館となり、それを機に木曽谷模型は展示から外されることになった。

Ⅱ.木曽へ里帰り
 平成2年(1990)春、神宮司庁営林部技士の高橋茂男氏(故人)から、木曽奉賛会*4事務局長の古瀬隆巳氏(上松陸送(株)代表)(故人)に「神宮農業館所蔵の備品を確認してほしい」という連絡が入った。それは木曽の山をかたどったものだと思われるが、農業館の改修工事のため分解して別の場所に保管中であるが、原型がよくわからず復元できるかどうか判断できないので、伊勢に来て現物を見てほしいという内容であった。そして復元できたとしても農業館としては再度展示する計画はないので、神宮用材の源である長野営林局で受けてもらえないかとの神宮司庁の考えが伝えられた。
 そこで古瀬氏は木曽の林業に詳しい元野尻営林署長を務め、木曽奉賛会の会員でもある高倉章氏に相談して営林局に話を通し、営林局からは岩下長幸監査官(元薮原営林署長)が指名されて、三人で同年6月に現地を尋ねた。案内をしてくれた高橋茂男氏は木曽福島の出身で、何とかこれを木曽へ戻してやりたいという思いがあったという。
 現物の保管場所は作業場内の倉庫で、分解・山積みされていたものを作業場に並べ、パズルを解くように大きな材料から並べ替えていくうちに山の姿が出てきて、御嶽山・駒ヶ岳・木曽川等が判別できるようになり、木曽全域の模型であることが判った。ただ細かい材料が不足しており、色彩も大半は変色していて、復元には相当多くの年月がかかると判断された。
 このとき模型内の棟札のような書き込みから、福島村の児野嘉左衛門の作による木曽の山々であることが確認できたので、是非復元して現在福島営林署として使用しているかつての「帝室林野局木曽支局庁舎」に保管展示したいという話がまとまり、岩下監査官が営林局にその話を持ち帰って、神宮司庁と長野営林局との間で協議が行われて移管の結論が得られた(*5)。

Ⅲ.修復・復元・公開
 平成2年9月(1990)、神宮から移送されてきたときは、39個に分割された材料1本1本白布で包んであった。修復・復元の作業は田中袈裟人次長の指揮のもと、2級建築士の資格を持つ表芳昭氏(大桑村)が棟梁役を務め、主に土木課の職員が担当、彩色については牛丸恒明氏(木祖村)が担当した。模型全体をのせる基盤(土台)は、町内の森本建設の大工が根太を組んで堅固なものを作った。
 模型の表面に小さなミニュチアの木が挿してあったり、名札が立てられていた痕跡があったりした。復元できるような状態ではなく、コーキング剤でブロック間の継ぎ目を埋め、塗装を行い、主要な山頂・峠・宿場等に標識の名札を立て、中山道他の主要な道路だけ色をかえて線を描いて表現したという。
 また、木曽谷模型の看板(案内表示)と裏面の解説は、当時所長であった小池貢氏によるもので、修復・復元にかかった経費は約300万円ということであった(*6)。
 平成3年(1991)2月2日に完成除幕式が行われ、制作者・児野嘉左衛門さんの子孫の児野照雄さん、神宮司庁からは今回の里帰りを実現させた高橋茂男さん、さらに農業館へ現物を確認にいった三人をはじめ関係者30人が出席して、その巨大なジオラマに驚きと喜びの拍手をした。

Ⅳ.その後も模型の数奇な旅は続く
 昭和から平成にかわる頃、国有林には未曾有の嵐が吹き荒れて、営林署の統廃合さらには営林局の統合すら当たり前に行われていた。
 平成7年(1995)3月、福島営林署は上松営林署に統合することになり、模型は地元の木曽福島町教育委員会に引き取られ、同町の福島郷土館に展示された。ヒノキの一枚板に書かれたもう一つの解説文は、そのとき教育委員会が作製したものである。
 郷土館は福島営林署の裏手の山の中に位置し、そこまでの傾斜がきつくて徒歩で行くにはつらいし、駐車場もないことから見学者が少なく、常駐の係員を置けないという悪循環の中で開店休業の状態が続いた。
 一方、郡内の高等学校も子どもの数が減少一方という状況の中で、木曽高校と木曽山林高校の統合が進められ、遂に平成21年(2009)3月末で108年つづいた木曽山林高校が閉校することになった。108年つづいた林業教育の灯は、統合によって開校した木曽青峰高校の森林環境科に引き継がれはしたが、閉校となった山林高校の校舎には統合で行き場を失った林業教育関係の膨大な資料が、おおきな標本室にびっしりと詰まったまま残されていたから、空いた教室に木曽谷模型を持ってきて展示し、標本室とあわせて「山林資料館」として一般の人にも見てもらえるようにしたらどうかという声が木曽山林高校の同窓生から上がった。蘇門会長で木曽町の町会議員でもある古畑富省氏(故人)が中心となって町と折衝し、同年6月に当分の間模型を貸し出すということになり、木曽谷模型は引っ越しすることになった。(この移設は木曽山林高校同窓会(蘇門会)が経費を負担して、森本建設の大工の手で行われた。)
 さて、この模型の旅はまだ続きがある。平成24年(2012)6月、地方独立行政法人長野県立病院機構から、模型を設置し標本室もある林業棟の建物を県立看護専門学校として使用したいので、別の校舎に移ってほしいという一方的な申し入れがあった。理不尽な申し入れであったが、結論としては同じ敷地内の旧・インテリア棟の2階に再度移転することとなり、木曽谷模型はまたも引っ越しする破目になった。(このときの経費は地方独立行政法人長野県立病院機構が負担。前回同様、森本建設が実際の作業を担当して、平成25年4月に実施された。)
 そして最後に、木曽町教育委員会が主管する「御料館」の修復作業が終わって一般公開をする平成26年(2014)6月にあわせて、木曽谷模型を木曽町に返却することになった。(このときの経費は木曽町教育委員会が負担。作業は森本建設に委託した。)
 ちなみに、山林局木曽出張所が明治13年に模型を作製してから、わかっているだけで11回引越しをしてきた。木曽ヒノキを使用した頑丈な造りであったことがそれを可能にしたと思われる。

(注)
*1 前史については、[神宮の博物館]のホームページを参考にさせていただいた。
*2 木曽谷模型制作の詳細は以下を参照されたい。山口登:明治の初めに木曽谷模型は何故作られたのか(『木曾山林資料館研究紀要』第2号(2021年3月)所収)
*3 展観:並べ広げて多くの人に見せること(明鏡 国語辞典による)
*4 木曽奉賛会:正式には「伊勢神宮御神木祭木曽奉賛会」という。
*5 ここまでの模型の里帰りにかかわる経過は、神宮へ現物を確認に行った三人の内の高倉章氏のメモ「木曽谷鳥瞰模型百年の旅」(木曾山林資料館所蔵)を全面的に引用させてもらった。なお、高倉氏はこの木曾山林資料館の運営管理を担っている「蘇門会(木曽山林高校同窓会)」の会長として模型の保存・公開に尽力された。
*6 福島営林署内での作業の様子については、当時、同署の庶務課に勤務していた和田十郎氏(木曽町)からお聞きしたものである。

( 2021年3月 文責:山口 登 )