[この題字は演習林管理棟の入口に掲げてある館銘板の文字から起こしたものである。木曽町開田高原在住の椙本清美氏の揮毫による。]
TEL.0264-22-2007
〒397-8567 長野県木曽郡木曽町新開4236 木曽青峰高校新開キャンパス内
木曾山林資料館のことを紹介するには、その母体である「木曾山林学校」ならびに「木曽山林高等学校」のことから話をしていかなくてはなりません。
木曾山林学校は、20世紀の最初の年である1901年(明治34年)4月に、我が国で最初の林業科をもつ実業学校として誕生しました。1948年(昭和23年)4月に新制高校として木曽山林高等学校となり、2009年(平成21年)3月に普通高校(木曽高等学校)と統合のため閉校となり、108年の歴史の幕を閉じました。
統合によって生まれた学校は、「木曽青峰高等学校」といいます。この高校には木曽山林高校の伝統を引き継ぐ森林環境科とインテリア科があります。
この資料館の元は、1910年(明治43年)に創立10周年を迎えたとき、山林学校の第二代校長である江畑猷之允(ゆうのじょう)先生が、在校生・卒業生に林業に関する標本を集めるように呼びかけたことがきっかけでした。
『‥‥林学は日は浅く教授資料が必要である。‥‥広く各地方の林業関係の標本が必要である。‥‥特に全国各地にいる卒業生にあっては、ぜひその地にある森林植物のさく葉*、樹実、材鑑はもちろん、樹病、害益虫ならびに鳥獣。森林工芸・林産製造品を送ってほしい‥‥』
(注)*さく葉(腊葉)…植物を平らに押して乾燥した標本。台紙にはってある。
続々と集まってくる標本を展示したのは、1912年(大正元年)に校舎が新開村杭ノ原(現・木曽町新開)に新しく建てられ、「林業標本室」が設けられたときからです。そこから数えても100年以上の歳月が経過しています。
平成21年の閉校で生徒・職員はすべて木曽青峰高校丘ノ上キャンパスに移り、標本室だけは旧・木曽山林高校の跡地である新開キャンパスにそのまま残されたのです。標本室以外にも新開キャンパスに残された古い器械や蘇水会館(同窓会館)の書庫に眠っている林業関係の貴重な書籍、山林高校の図書館にあった郷土史関係の書籍等も合わせて、「山林資料館」という名称をつけて保存整理することにしました。
当初、2009年(平成21年)8月に代表的な資料を選んで仮展示をしたのですが、平成23年からは山林高校OBの有志の方々も資料整備に加わり、翌24年には8割くらいの資料が台帳に登録されたので、本格的な展示に移行させようと計画していたときに、標本室が入っていた林業棟全体を、3年制の看護専門学校として使いたいという希望が、地方独立行政法人/長野県立病院機構から出されて、やむなく山林資料館は同じ旧・木曽山林高校の敷地内にあるインテリア棟に移転することになりました。
こうした事情で、インテリア棟の改修工事を行って展示室の体裁を整え、ようやく2014年(平成26年)5月、新しい展示を一般の方々へ公開することに踏み切ったのです。
一般公開と言っても名ばかりで、週1日だけの限定的な公開でしかありませんが、ここから新しい一歩が始まると思っています。
公開に先立ってこの施設の名称について、全国の方々に存在場所がわかるように「木曾山林資料館」としました。木曾の“曾”は、100年前に林業標本室が生まれた頃に使われていた字をあえて使うことにしました。
今回、資料館の公開を決断したもう一つの理由は、2014年(平成26年)3月に木曾山林資料館が所蔵している林業教育にかかわる資料と、資料館の目の前に広がる演習林が、日本森林学会から[林業遺産]に認定されたことも一つのきっかけになりました。遺産というのは「前代の人々が残した業績や文化財」という意味がありますから、これは後世に伝えなければならないし、多くの人たちに知っていただくことが大切であろうと思うのです。
認定された林業遺産のタイトルは、「旧木曾山林学校にかかわる林業教育資料と演習林」です。校舎は長い歴史の中で何回も建て替えられてきたので、校舎ではなくて教育資料そのものが遺産として認定されました。これは珍しいことであろうと思います。