[この題字は演習林管理棟の入口に掲げてある館銘板の文字から起こしたものである。木曽町開田高原在住の椙本清美氏の揮毫による。]
TEL.0264-22-2007
〒397-8567 長野県木曽郡木曽町新開4236 木曽青峰高校新開キャンパス内
当資料館は木曽にあり、木曽という林業地帯の中に生まれた木曾山林学校に源を発しています。木曾山林学校そのものが木曽の林業史のひとこまであると言ってもよいでしょう。ですから、この資料館の活動の一環として、木曽の林業の歴史について文献を収集し研究をおこない、重要なことをまとめて木曽青峰高等学校や長野県林業大学校の授業等で活用していただくと同時に、広く一般の方々にも公開したいと考え、この「木曽の林業の歴史」のコーナーを設けました。
そうは言っても歴史を掘り起こすことは大変な作業です。まず、先人の研究成果を勉強するところから始めなくてはなりません。生涯をかけて尾張藩時代から残されてきた文書を解読して、『近世林業史の研究』を著した所三男氏をはじめ、徳川林政史研究所所員(研究員)を中心に在野の研究者も含めて、「徳川林政史研究所研究紀要」にたくさんの研究論文が発表されています。まずはそれらの研究成果を吸収するところから始めていかなければなりません。
この「木曽の林業の歴史」というコーナーは、当館の担当者の勉強から生まれたメモであると考えてください。
手始めに木曽林業史を俯瞰するために、林政史年表の作成からはじめました。
年表は4つの時代に分かれています。
①尾張藩が支配していた時代
②明治時代の官民有区分/御料林事件
③御料林時代 (作成中)
④林政統一による国有林時代 (作成中)
西暦 | 日本年号 | 記事 |
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1590 | 天正18 | 秀吉、木曽を蔵入地とし、犬山城主・石川光吉を木曽代官に任命 |
1600 | 慶長5 | 家康、木曽を直轄地にし、木曽氏の重臣であった山村氏を代官に任命 |
1615 | 元和元 | 尾張藩領に。ただし、家康は優先的に木曽の木材を利用できた |
1618 | 元和4 | 尾張藩は巣山の制度を設ける(59ヶ所) |
1640 | 寛永17 | [この頃、木曽山からの木材搬出は年間80万本] |
1664 | 寛文4 | 尾張藩による最初の木曽山巡見が行われる。留山の制度を設ける |
1665 | 寛文5 | 上松材木役所、錦織奉行所を設ける |
1684 | 貞享元 | 鞘山を設ける |
1687 | 貞享4 | [この頃、木曽山の留山・巣山は22,000 haに及ぶ] |
1708 | 宝永5 | ヒノキ・サワラ・コウヤマキ・アスヒの4種、停止木(ちようじぼく)に指定 |
1709 | 宝永6 | この年の伊勢神宮の遷宮用材からは、木曽山から伐採・搬出 |
1710 | 宝永7 | [この頃から木曽に地杣が育成されて、角材や板子などを作るようになる] |
1719 | 享保4 | 伊勢神宮遷宮用材の伐採地が木曽・湯舟沢に決まる |
1720 | 享保5 | クリ伐採制限(留木) |
1722 | 享保7 | 切畑に厳重な制限が加わる。マツを留木とする。 |
1724 | 享保9 | 上松材木役所に植栽役所を併設 木曽谷総検地行われる。百姓控え山林は村預けとなる。(自由伐採はダメ。手続きを踏めば禁木の他は優先的に採材を許可、百姓の慣行上の用益権・入会権の全否定ではない) |
1726 | 享保11 | 市川甚左衛門を初代材木奉行とする(その後、40年にわたって木曽山にかかわる) 山村家御用達役所が関所周辺にスギ3,000木、宇山にヒノキ・サワラ10,032本植える。(これらの植栽は活着率低く失敗に終わる) |
1728 | 享保13 | ネズコを停止木として追加指定(これで『木曽五木』が揃う) |
1735 | 享保20 | [この頃、木曽の杣は全部地元民で占められるようになる] |
1738 | 元文3 | カツラ・ケヤキ 留木となる |
1739 | 元文4 | 巣山・留山の見廻りを山村家の家臣(旧木曽氏の家来)にやらせるようになる |
1764 | 明和元 | 幕府、挿スギ・挿ヒノキ造林について仕法を通達 |
1768 | 明和5 | 尾張藩がスギ苗500本を湯舟沢村内に植え付けさせる。その後、2・3年で2,400本を植え立てする 雑木の植林を村々に命じる。一例としてクリ苗を購入して湯舟沢村に下渡し、合計46,000木を仕立てさせ、4年後(1872;安永元)にクリ植栽を希望する近隣の村々へこの苗木を下渡しする |
1780 | 安永9 | 享保9年以降の新規立林の伐潰し命令がでる(実際は伐潰しせず、重要な樹種の伐採をさせないためのおどし?か) |
1786 | 天明6 | 藩から廻状が出され、伐採した後の切株のまわりに1株ごとにヒノキ・サワラまたは雑木を2~3本必ず植え付けるように命令 [この頃、木曽山からの木材搬出は、1,700年代のはじめから極端に減少していたのが、年間25万本くらいに回復] |
1791 | 寛政3 | 尾張藩、木曽の施業計画を定める[50年の輪伐期を決め、伐採量を成長量以下にとどめ、900m3/ha 以上の高蓄積の美林をめざす] |
1793 | 寛政5 | 三岳村の田中新左衛門、スギ・カラマツの植林を始める |
1800 | 寛政12 | 山村氏により入会地の整理・実地調査が行われ、山絵図提出。裁許状下付 |
1838 | 天保9 | 木曽馬の生産盛んとなり、この年、牝馬2, 659頭。木曽北部が多く放牧や干草刈場など原野は15,000町歩に及ぶ |
1849 | 嘉永2 | ケヤキ停止木となる |
1851 | 嘉永4 | 天保13年(1842)から弘化4年(1847)にかけて、伐出後や切畑跡でヒノキ苗の植え付けを上松材木役所が進めたが、失敗。 |
西暦 | 年号・月 | 記事 |
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1869 | 明治2 | 島崎正樹(馬篭戸長)、請願書を提出(その内容は、享保以前に戻し、明山を百姓に開放してもらいたいというもの |
1873 | 6.3 | 筑摩県権中属 本山盛徳の木曽谷官・公・私有区分調査始まる |
1875 | 8.9 | 「木曽谷村々公有地民有地ニ編入之義ニ付伺」提出 |
1876 | 9.5 | 「木曽谷村々公有地民有地ニ編入候儀ニ付再三上申」提出 |
1877 | 10.6 | 「木曽谷公有地無代下渡並立木払下之儀ニ付伺」提出 |
1880 | 13.6 | 同 上 認可される |
1881 | 14 | 官林境界調査始まる |
14.5 | 木曽谷21ヶ村から「………再調査請願書」提出。この後5回提出するが却下される 以後、各地に境界誤謬訂正運動おきる。[駒ヶ根村カヤノ問題・吾妻村井戸洞問題・王滝問題・西野事件・栃洞問題・コモノ沢事件・大桑村八ヶ沢問題・駒ヶ根村小川西問題・楢川村なぎの沢問題・福島町水沢問題 等々] |
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1885 | 18.12 | 宮内省に御料局設置 |
1888 | 21.4 | 西野村・末川村に宮内省から役人が来て、民林買上げの意向を説明(この後各村へも)[ここで民林とは、官民有区分で公有地となってから民有になった山林をさす] |
21.5 | 11~14日 各村総代による討議。その後各村に持ち帰って討議の結果、各村とも民有林の御料林への編入は拒否する決議をする。しかし事態はいつの間にか編入へ進んでいく | |
1889 | 22.8 | 木曽の官林・公有地、御料林に編入が決定 |
22.12 | 木曽谷御料地、世伝御料に指定される | |
1895 | 28.7 | 神坂村他4ヶ村から御料林境界調査開始(調査立会拒否問題おこる) |
1898 | 31.6 | 「……西筑摩郡16ヶ町村山地旧官民有境界改訂ノ哀願」を宮内大臣に提出。郡長は知事あてに同趣旨の上申書提出 |
1899 | 32.7 | 知事・郡長・県属を含め町村長委員ら23名上京、官民一体の請願活動を展開 |
32.8 | 30日 境界改訂の哀願書却下される | |
1900 | 33.2 | 恩賜金下付哀願を決議。6月哀願書を御料局へ提出。7月16日却下される |
33.11 | 島崎広介、恩賜金下付哀願運動の代表となる | |
1901 | 34.11 | 町村長集会にて「御料林守護取締規約準則]議定 |
1904 | 37.1 | 知事、宮内庁に出頭。宮内大臣より御下賜金下付の承諾を得る |
1905 | 38.7 | 宮内大臣より知事あて、明治38年より24年間、毎年1万円の御下賜金下付を通達 |