木曾山林資料館

                   

[この題字は演習林管理棟の入口に掲げてある館銘板の文字から起こしたものである。木曽町開田高原在住の椙本清美氏の揮毫による。]

木曾山林資料館2014.5.24OPEN

TEL.0264-22-2007 

〒397-8567 長野県木曽郡木曽町新開4236 木曽青峰高校新開キャンパス内

◇本多静六と山林学校のかかわり

◇本多静六と山林学校のかかわり

 本多静六(1866-1952)は、明治~大正~昭和戦前期に我が国の林学界・造園学界に大きな足跡を残した巨星です。その彼が山林学校の創設や教育内容に多大な影響を与えたことはあまり知られていません。このことを少し長くなりますが、当資料館に残されている資料等から紹介しましょう。

 本多静六の功績は、第一に木曾山林学校が設立される過程で一つの大きな影響を与え、第二に本多の農科大学時代の教え子である木曾山林学校の初代校長・松田力熊を通じて、本多の林業に対する姿勢や林業教育の手法を木曾山林学校に根づかせたとみられる点、そして第三に山林学校の生徒に直接、指導・講話という形でインパクトを与えたこと、最後に教科書執筆を通じた貢献にまとめられると思います。
 以下でそれらを具体的な史実をもとに整理してみます。
 まず、木曽山林学校ですが、学校の設立の経過は、明治33年2月の郡会で実業学校の設立が決議され、たまたまその年の7月に静岡で大日本山林会の講演会があり、講師は農科大学の本多静六先生であるという情報がもたらされ、郡の若手幹部11名がそれを聞きに行くのです。
 本多静六のその講演会の演題は「木材利用法の進歩」で、講演の最後の方で「木材の利用は広がっているが、これに伴う植林はすべからく林業従事者の責任である。長期的に山林を経営していかねばならない。それには林業教育が大事である。」という趣旨のことを熱烈に説いたわけです。大日本山林会会報には「この演説に聴衆もおおいに感動し、恰も酔えるが如くなり」と記録されています。
 この講演を木曽から聞きに行った若者たちはおおいに感激をし、帰ってきて報告して、「林業教育が必要だ!山林学校を作ろう!」ということになって、明治33年10月の郡会で満場一致で可決、直ちに文部省に設置認可の申請を出すのです。これが、本多静六が木曽山林学校に与えた影響の第一番目です。
 この本多静六の演説を、1年後に木曽山林学校の初代校長となる松田力熊が島根県からはるばる会場に来ていて聴いております。
 松田力熊は明治23年に東京農林学校に入学。予科3年・本科3年の計6年をかけて農科大学林学科を卒業しますが、後半の4年間、ドイツ留学から帰って来て助教授に就任した本多の教えを受けることになります。
 この4年間、どんな教えを受けたのかはつまびらかではありませんが、一つだけエピソードが残っています。本多の提案で明治27年秋に、千葉県の清澄山に日本で最初の演習林が開設されますが、翌28年4月、ここで造林実習が行われます。農科大学林学科2年生(本科・乙科)二十数名が実働6日間にわたるハードな実習をしますが、そこに松田も参加しています。
 この実習の様子を学生の一人が大日本山林会報に寄稿した一文が残されています。

 実習の2日目は午後6時におよび疲労困憊の状態で宿に帰ります。手にはマメをつくり、箸を握るのもおぼつかない状況です。そこで夕食後に学生らが先生に、時間の短縮・人夫の増加を頼むのですが、本多は頑として動かない。本多は学生達を説得します。

……農林学校以来、未だかつて行われざりしこの造林学実習を新たにここに企てしは容易ならざるは素より予期する処、この困難を忍ぶ能わざるものは我友にあらず。林学を修るに適せざるものなり。

……感奮禁する能わず、再び勇を鼓して其業に励ましめんとするに至れり……

 【服部正一:農科大学造林演習記事(『大日本山林會報 第百四十九号』;明治28)より】

 この説得で学生らは勇気をふるって、このあと更に3日間実習を続けて、最終日、片付けをして海岸へ下り磯遊びをしたあと、本多も含めて師弟和気藹々の宴会を催して終わります。

 松田が校長として赴任して直ぐに演習林の設置に動きだし、郡の幹部に働きかけて1年たらずの内に演習林開設を実現したモチベーションは、この造林実習にあったのではないかと推測しています。
 演習林の設置以外にも松田が実行した大きなことに修学旅行があります。着任早々の6月に自ら引率して郡下の森林視察を実施したのをはじめとして、3年間かけて第一回生をあちこち連れて歩き、彼らが卒業した時点で修学旅行の実施を学則のなかに明記します。

……但シ旅行ノ日数ハ第二学年ハ約二週間第三学年ハ約三週間トス

 また、……生徒各自ノ都合ニヨリ之を免ルルコトヲ得ス

【長野縣立甲種木曾山林學校學則(明治37年改訂)より】

 このように、松田力熊が構想した山林学校の教育方針は「林学は観察の学問である」という言葉に集約され、そこに本多静六の影響を見ることができます。
 第三の功績として本多が木曽山林学校の生徒に直接指導をした点です。山林学校の校友会という生徒・教職員・卒業生の三者でつくっていた研修と親睦をかねた団体で発行した『校友會報』に、詳細な記録が残っています。

明治36年6月1日/浅間山麓のアカマツ林にて(中央やや右の立派な髭の人物が本多静六博士)

  明治36年6月1日、2年生の修学旅行の長野県の浅間山麓の山林局のカラマツ林です。ここで、本多博士の一行と落ち合います。松田校長が本多と連絡を取り合ってのことです。

 この日一日、本多は修学旅行の山林生を案内し、各所で本多をはじめ同行の研究者・技術者が入れ替わり講義をするのです。この日の動きは校友会報の修学旅行記に細かく書かれています。
 この1日の中で、本多静六は4回、野外ではありますがある程度のまとまったテーマのもとに生徒に講話を行っています。帝国大学の教授が、実業学校の生徒のために無報酬で朝7時から夕方6時まで13時間つきあっています。しかも、自身の同僚や教え子の学者・技術者を巻き込んでのことです。

 最後に本多が実業学校で使用した林業関係の教科書を執筆したことも大きな功績であると思います。本多静六が最初に書いた実業学校向けの教科書は明治40年3月発行の『林学通論』で、明治の終わりまでに6冊出されています。本多静六編著の『森林家必携』も林業教育の中では忘れられないものです。大正以降、実業学校の林業関係の教科書は教え子の教授・助教授が部門ごとに書いて、本多静六が監修するというスタイルが確立します。

 以上、木曾山林学校の草創期に本多静六と松田力熊初代校長とのコンビが、林業教育の定着・発展に果たした功績を歴史上の一つのエピソードとして紹介いたしました。
(この項目は、平成26年3月に行われた第125回日本森林学会大会で、本資料館のスタッフの一員である山口登が発表した原稿をもとにまとめたものです)